auguryの世界を憎むチラ裏。

日々生きにくくなる日本で、自分がすべきこと。

最終的に女に求めるのは接合ではなく可愛さと癒しだと気づく。

アラサーおじさんになって思うことがある。それは性欲の減退とセックス意欲の減退だ。女に求めるものは20代前半まではとにかくセックスなのが常識であるが、日本的にも個人的にも20代後半になるに従い性欲の減退は著しいし、何より腰を振り続ける必要のあるセックスは疲れる割に対して気持ちよくもない確率が高い。じゃあ女には何を求めるのかといえば、それは可愛さとそれに付随した上での癒しである。そしてこれはここ数年の若年男性がアニメや漫画やラノベに求める女性像と一致していたことに気づく。つまりDT君も性欲減退おっさんも求めるのは空想上セックスもしくは疲労と義務の上でのセックスではなく、可愛すぎて思わず笑みが溢れるような美少女が自分をチヤホヤナデナデしてくれる行為だということに気づいてしまったのだ。チクワとして女をもとめるのではなく、ただただ可愛さと甘えと無邪気の許された空間や関係に思い巡らせ、その中で失われた男性性ないしは根源的愛を取り戻すということである。そのための最も思い至る手段として美少女というイコン、偶像が存在するのであり、経済の行き詰った日本産業界がリバイバルブームだのと言って既存のコンテンツに繰り返し頼り続ける中で産まれたアイドルという美少女の消費形態もその一種であろう。別にアイドルや美少女にはセックスを望んでいるわけではないのだ。いやここは個人の見解の相違があろうが、セックス自体は疲れるし相性が一致して満足いくセックスのできる確率はお互いのコンディションもありそう高くはないのだから、実際セックス自体ではないのだ。あくまで仮想上のゴールとして設定されているだけで、本当に希求しているものは、美少女がもたらす癒しそのものである。

 

そういう視点でアニメを観ていると、やはり日常系アニメや美少女アニメ(非戦闘)が私の心に響いてくるのは間違いないじゃないことに気付かされる。戦闘ものはセックスを想起させる。攻撃や野蛮や闘争は10代~20代前半まではそれを求めるものであるが、年齢を重ねるにつれて、そういう争いは現実世界で限りなく体験してきたわけで、これ以上アニメの空想世界の中で観たくもないものである。という訳で私的に来期アニメのおすすめを挙げておく。

OVA ハイスクール・フリート

フレームアームズ・ガール

シンデレラガールズ劇場

サクラクエスト

ひなこのーと

冴えない彼女の育て方第二期

エロマンガ先生

以上。

2017年日本国における女の勝利と愛の搾取と精神衛生

根源的愛の欠如した日本人が増えている。これは日本女の子育てが悪いし、日本女を持ち上げつけあがらせ優遇する全ての産業界とメディアマスコミ判例のせいである。男と違い平等という概念の欠如した女はどこまでも社会全体を女有利の社会文化に変革する。全ての責任を社会に押し付けるのは自らが弱者であるという論理だが、女は弱者であるという言説の元で強者になったのが今の2017年日本社会である。こんな社会になったのは体育会系と強者に都合のいい社会、つまり右翼に都合の良い社会にする方向に女の同調圧力は機能する。そもそも男性と異なり女は(特に)異性の弱者が死のうがどうでもいいのであって、社会的弱者を始め、肉体的弱者、容姿の弱者、能力の弱者、コミュニケーション能力弱者、就活弱者、家柄の弱者の男性は社会全体としてどうでもいい存在として扱われるという論理がここに展開していると思われる。ドクター差別のような勇者がどんどん現在の女尊男卑社会日本をぶち壊し、若者ネット文化全盛の圧倒的世代の価値観の差異を理解する能力もない老人が支配する日本社会をぶち壊さねばなるまい。同調圧力はテロやデモを抑制し、反逆を抑制する。すべて女のせいだ。女にモテないから抑制する。女にモテるというのはセックス出来るか否かではなく、女に気に入られるか、女から好意を持たれるか否かが、社会生活全体として非常に重要になった社会である。それが同性の評価や世代同士の評価にも関わり、ホモソーシャルな文脈の中では当然だが、日本ではそれが過度に亢進している。膣壁に肉塊を挿入する行為を求めているというよりも、性は社会に参入できているか否かを判断する指標となり、それは股を開けば恋愛できる女には適用されない。ここでも男性弱者の社会日本が、女よりも根源的愛が欠如しやすい構造が存在する。女は人生イージーモードという通り、ただ女性器がついているだけで性欲との分離の問題はともかく周囲の人々から根源的愛の獲得は容易にできやすい。しかし男性はただ男性器がついているだけでは愛されることはない。しかも女よりも心身ともに丈夫であるという神話や、男はより危険をリスクを取るべきという旧来のジェンダーによって根源的愛の獲得は困難になることは多いと考えられる。まあ現代はそうした事情がネットを中心に理解され、今の若年男性は恋愛や結婚などの男女交際自体を回避する傾向が増加してきているということもある。つまり根源的愛が欠如した男性のその獲得は、従来は恋愛や結婚だったものが、それがいじめやリンチ、出る杭の打ち合いといった、より非コミュニケーション的なものへと変容してきたのではないだろうかと思う。前回の記事の通り、日本社会には、根源的な愛の欠如したヒトは多い。幼少期に十分な自己肯定感が育たず、死ぬまでそれを出会う他人全てに盲目的に求めるがゆえに他人に慢性的に不満と迎合を繰り返す性質だ。それは根源的なものなので絶対にヒトである限り解消を求める。従ってそれが恋愛や結婚といった全人的で長期的な関係を基盤としたコミュニケーションにより解消するのではなく、むしろ本人とは無関係に愛の欠如した集団で自己顕示欲や愛を満たし合うネットや学校や会社や日本人集団内におけるありとあらゆる地位の力量差を図りそれを根拠とした「いじめ」に結びつくのだ。産業としてそれを満たすのは性風俗業を始め、アニメ・マンガゲームがそれであろう。ヒトは産まれた時には愛の器は空っぽである。それが満たされるためには長期的に渡る無条件の親に相当する者の愛情としつけによって満たされる。それが不十分なのは親もまた心が満たされていないからだ。負の連鎖は残念なことだが経済的格差とも直結している。一般に社会階層が高いほど、子供の精神衛生も健全に育つ傾向はあるように思える。それは周囲の養育環境に携わる人々も健全な人々の割合が相対的に高いことが予想できるからだ。しかし人生は一度きりである。どんな環境でも、周囲の嫌な奴全てを蹴落とし、一人だけ生き残ればいい。自分以外はどうでもいい。孤高の勝利者となり、見返してやれ。それがこの精神搾取陰湿世界一ジャップランドで生き残る唯一の方法なのだと信じて。

コミュ力の圧倒的欠如は悪か?

そもそもコミュ力は本人の責任じゃない。これをもって悪でないと断言することは難しい。善悪は所詮イエローモンキーの多数派が少数派より都合が良くなるように決めた自分勝手な都合にすぎない。そもそもコミュ力がないとは、他人と関わりたくないし他人がイラつくし全員死んで欲しいがそれを言うだけのパワーや勇気や根性や度胸が無いという意味なのである。コミュ力がない原因は他人への敵意や憎しみが起源である。それはつまるところ、愛の欠如による自尊心の根底的欠如、養育環境における安定的な無条件の愛の獲得の欠如が原因であり、本人の責任ではない。ヒトは生まれてから、自分を愛することを親を中心に学ぶ。それが与えられないと生涯そのヒトは無条件の愛の欠如を埋めるために自分を犠牲にしてまで盲目的に愛を求め続けてしまう。愛を求められないから他人に愛を求めるがそれが母親や父親が与えるべき愛であって、それ以外の他人が無条件の愛を与えるのは不可能である。従って生涯不満を抱いて他人と関わる一方で他人に媚びを売る。このアンバランスさ、不調和によってヒトはコミュ障となる。一方で他人に気に入られないと死ぬほど辛い、しかし他人は自分を親のようにチヤホヤしてくれない、だから常に他人が嫌いで憎いが、人間の根底的愛の欠如を求めるがゆえに、その憎い他人の言うことをホイホイきいたり、気に入られるような振る舞いをして自分を犠牲にする。その結果、引きこもりやうつ病や糖質や神経症や殺人や自殺をする。正常な無条件の自尊心を持つ健常者はそこまででもないが、そういう愛の欠如した9割の日本人が同一集団内にいるとたちまち杭の打ち合い、愛の奪い合い、すなわちいじめに発展する。日本人のいじめは世界一陰湿で醜悪であって、その結果ますますコミュ障が量産されていく。コミュ障かコミュ障でないかは程度や環境の差でしかないのがこの鬱苦しい国日本国の正体である。だからコミュ障でもいい、コミュ障はむしろぬるま湯に浸った大勢のイエローモンキーが思考停止脊髄反射で充足する社会に生きる中で死ぬほど考え思考し模索した賢者であり孤高の哲学者なのだ、彼らは誇っていい。そして自意識の檻の中で死ぬまで思考停止の畜群どもを見下し一人悦に浸ればいい。その代償は圧倒的勝利だ。愛の欠如によって圧倒的勝利を手にしなければならない。だからこの手の人種は生きるのが辛い。それは選ばれし賢者だから当然だ。その過酷な環境で圧倒的能力とともに圧倒的勝利を手に入れ、思考停止の三流を見下し、勝利のスペックを手に入れろ。

とにかく死にたいというよりは無になりたい。

もはや自分が人生に望むものは何もない。高層ビルから見上げる景色も、その地位も、年収も、莫大な富を獲得する競争も、興味がない。自分に必要なのは、誰にも邪魔されない平穏無事な境地なのであって、それは誰にも邪魔されることなく誰からも気にされることなく誰にも監視されることなく、堂々と一人で誰もいない水辺の湖畔に佇み一人高級で美味な紅茶や珈琲を嗜みこの人類が作り上げた世界すべてを呪い嘲笑するということにすぎない。言葉すら空虚でもはや誰も信じず何も感じずただ刻々とすべきことというものが押し寄せてくると同時に自意識による苦悩と、一流を目指すが一流に未だ到達しない苦悩を味わい続け、とにかく苦しいの一点である。

 

人間がとにかく嫌いなのであって、人類がとにかく嫌いなのであって、自分をチヤホヤしない奴は全員死んで欲しいのであって、ただ誰にも邪魔されず平穏無事に一日を心安らかに生きていればそれでいいものを、現実問題どうしても実際の人物との衝突は免れ

ないのであって、それがたまらなく心がヒリヒリと痛むのであって、心がこれ以上動揺してはもはや生きていられないのであって、全ての人間より上でなければならないという強迫観念が酷い。いわゆる一番病に取り憑かれた孤高の人は皆そうなのだろう。文章を書くという行為自体が見世物であるけれども、一体自分が何を本当に望んでいるのか、自分が何がしたいのかといえばこれは全くわからないのであるが、唯一これかなと暫定的に言えるのは、ただ何も義務を課せられることなく、誰からも文句を言われることもなく、ただ現実逃避の世界や王室御用達のベッドでおいしいコーラやビールでも飲みながら一日中ひたすらゴロゴロして時が過ぎ去るのを待つだけである。

 

一体自分が何がしたいのかわからない、ただその一点でこのブログというチラ裏をすなる。